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| Trace member's roots : ▼西村和信(B) ▼佐久間晃彦(Drs) |
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| 〜 音楽とともに 〜 |
クラシックピアノ
両親はいわゆる固く真面目なクラシック派で、子供の時分そんな母親の胎内にもモーツアルトあたりが響いていたのではないだろうか。
生後3才ごろからヤマハピアノ教室で習い始めたらしい。女の子が多かったピアノ教室。住まいの引っ越しに伴って何度となく変わったが、どの先生にも恵まれ、ピアノが嫌になることはなかった。 |
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| 五右衛門風呂、左端が本人 |
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ポピュラー音楽との出会い
順調にピアノ教則本「ソナタ」に進んだ中学時代は、音楽の授業の自由発表のような課題で自作曲を披露する機会もあった。同和問題を授業でやったときには割と単純で素直だったので話の悲しさにすぐに反応し、故郷を真っ当に名乗れない人のことをうたった教科書中の詩に勝手に暗いフォーク調の曲をつけて悲しみの悦に入っていたりした。やがて仲の良かった友達の影響で日本のフォークソンググループ「アリス」を聴いたり、ガールフレンドの影響でロックグループ「甲斐バンド」を聴くようになった。「クイーン」や「アバ」中毒にも冒された。だけど音楽の授業や童謡以外で初めて聴いたポピュラー音楽は「アリス」の「ジョニーの子守歌」だった。聴いたときは「なんだこれは!」という一種新鮮なショックを覚えつつ、理由はともかくとても魅力的に感じたものだ。 |
放課後のロックバンド
高校へはいると、クラブ活動に何故か登山部を選び、あっさりピアノを習うのを辞めたが、一方で親には内緒で高校の新しい友達(不良っぽい子も中にはいた)と、町の幾つかの高校の生徒が集まる音楽イベント向けのロックバンドを組むことになり、何度となく小汚いスタジオで練習をした。キーボードの担当だったが。「レインボー」の「アイサレンダー」のピアノフレーズは今でも忘れられない。それが初めてのバンドだった。自分は真面目で存在感がなかったが、ギターの奴は少女漫画に出てくるミュージシャンのように背も高く格好良かった。それに町はずれのスタジオに出入りしたり練習のあと当時は高校生が普段いてはいけないような煙たく狭いバーの片隅でたむろする(マスターらしき人が確か焼そばをつくってくれた)といったような生活自体が何か秘密めいていて、不良っぽくて格好いいと思っていた。雑居ビルイベントはビートルズの真似をして屋上で開催される予定だったが、現実はそれほどうまくいくはずもなく、確か苦情か何かであっけなく急遽屋上のひとつ下の階でライブが催されることとなった。とても閉ざされた空間ではあったが、自分にとっては記念すべき音楽デビューであった。
そのころは「フォリナー」や「ジャーニー」などのアメリカンロック談義に燃えていて、メロディラインやコーラスのきれいなサウンドに傾倒していた。 |
現在への布石
大学入学と同時にいわゆる軽音(名前はフォーク研)と呼ばれるサークルに入り、相変わらず「トト」や「シカゴ」が好きで、似たようなオリジナル曲を自分のバンドで演奏するようになった。そのころは歌も歌うようになった。自分ではなかなかうまいつもりが、先輩の評価は「歌とは思えない」だった。曲のほうはやたらと複雑で、細部ばかりにこだわっていた。今思えばジャズ研の部室が隣にあって、練習に行くときなど横目でみて通りすぎていたが、そこから発せられる音に、大人の女のような何か近づきがたい魅力を感じたのを覚えている。
一方高校の登山部の後輩も何故か同じ大学に来ていて交流があったが、「スティーリーダン」のサウンドを知ったのはそいつのおかげだ。ホールの響ではないデッドなスタジオサウンドの感じが大好きになった。3年くらい経ってから、案の定彼等の音やアレンジの真似をするようになっていた。 |
目覚めの時期
いわゆる大学卒業の時期になんとなくあこがれていたパリに1ヵ月ほど一人旅に行き、ヨーロッパムードに浸ったことと、25歳のとき一風変わった友人の妹が住んでいた札幌で最も古いと言われるとても大きなビル「グランドビル」に住んだことは、自分の音楽の感受性やらすべてをひっくり返した。畳をはがして土足で生活したマイルームがあり、住人の自転車が行き交う暗く広い廊下があり(ちょっと不思議だ)、中華料理のコックやビリヤード場のマスターの住むそのビルは、果たして地上げ屋の格好の的で、何度となくぼや騒ぎがあった危険な場所だった。現代化には目の上のたんこぶのような存在だった。でも、何か古くて汚く生活臭があり湿っていて、人の往来や喜怒哀楽の一々が感じられるもの--を好きになっていた自分にとっては、このビルはまるでエプロンがそのままの近所の太ったおばさんのイメージだった。街の欄干や階段、ビルの壁、バーの暗がり、雑踏、人の足音、すべての喧騒と雑然が音楽と深いところで結びついていったような気がする。そのころ聴いていた音楽は、キャバレーでも働いていたちょっと助平な音色のサックスを吹く友達の影響もあり「スタイルカウンシル」や「トムウェイツ」「シオン」など。「リッキーリージョーンズ」もよく聴いた。よく行ったススキの場末のバーでは、ジェリーさんという流れ者らしいマスターがブルースハープを吹いてくれたし、自分も酔っ払って調律を知らないピアノを弾いたりした、そういう世界に浸って酔っていた。 |
疾走の夜と夢
一時、極寒の地「旭川」の賃貸マンションを借り、そこを拠点としてコーヒーセールスマンとして仕事をすることになったが、寒いからこそ美しい山々や、霧がたちこめる川と森を目に焼き付けながら、いつしか漠然と、しかし確固とした気持ちで今の職業生活から逃れようと決心し、札幌と旭川とを往復してはデモテープを作る、やはり閉ざされた生活を送った。週末になると、大学のサークルのギタリストの先輩のマンションに入り浸たり共同作業で夢を歌う曲をやみくもに作った。当時往復に使っていた車はフォルクスワーゲンビートルの旧型タイプ(確か昭和47年式だったと思う)で、触ると作動するギヤをもつ半オートマティックというわけのわからない代物だった。音楽をボリュームいっぱいにして石狩平野の吹雪の国道275線を思いっきりとばしたものだ。でもワイパーがしょぼくて、吹雪のひどい時はだんだん動きが鈍くなり雪と氷で固まっていくのだ。真冬の夜の荒れ模様と、平気で突っ走る大型トラックと時折襲ってくる眠気が強く記憶に残っている。このまま死んでしまうかも、というような妙な錯覚さえとらわれたといっても過言ではない。でも、冬でも穏やかな日差しの国道を走っているときは、いつか見た「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という映画のようなモノクロームのロードムービーに現実を重ね合せたりしていた。
また、旭川の街にも味のある店がいくつかあった。駅近くの古レコード屋はジャズを数多く扱っていたのでよく通った。「ジャッキーマクリーン」や「モンク」「チェットベイカー」「マイルス」。よくわからないままよく聞いた。町中の狭い路地にあるバー「ラジオ」には雰囲気のあるおじいさんが居た。ラジオからいい音楽が流れ、ネオンの灯りもなぜか懐かしい感じに路地を照らしていて、独りで何度となく足を運んだスポットだ。 |
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| 旭川のひとり暮らし |
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「ストレンジャー・ザン・
パラダイス」のあたり |
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東京へ
とうとう仕事もいやになり退職して上京し高円寺に居を構えた頃は、働いてためた200万円で馬鹿な放蕩生活を送ってしまい、デモテープ作りのほかは何もしなかったような気がする。レコード会社の催すオーディションには何度となく出品し、そこそこの評価を得ていたものの決定的なものはなかった。そのころバンドを結成しようとその手のミュージックマガジンでメンバー募集をかけ、今のドラムスの佐久間晃彦と知り合った。彼とはそれ以来の付き合いだ。一方でやはり雑誌を通じて知り合った映像のプロとコンビを組んで一時はコマーシャルや企業や自治体の研修用BGM等の作曲/編曲で食べていこうなどと思い、それなりの活動をした時期もあったが、結局自分のオリジナル曲を人に知ってもらいたい欲求の方が勝り、いまの音楽活動につながっている。
東京にでてまもなく新しく知り合ったユニークな友人の紹介で、静岡のとあるレストラン兼雑貨屋のオープニングパーティでピアニカ+ギターのユニットで演奏したことがあったが、そのときブルース調の独特の歌声とこすれるようなギターの男に出会った。家業はパン屋であったが、音楽の他に流木を使ったアーティスティックなオブジェをたくさん制作して興味深い人だった。(最近も流木アーティストとして健闘しているようだ)女泣かせらしいその彼に、あるとき高円寺に「稲生座」というライブスポットがあって出演するからおいでよ、と言われてフォーキーでブルージーな店の雰囲気のなかで楽しみに彼の出番を待っていた。ところが出演の時間寸前に電話が鳴り、呼ばれて出たら彼からだった。高速道路で車のエンジンがオーバーヒートしてしまったというのだ。急で悪いが、楽君、代わりに演ってくれないかと頼まれてしまったのだ。あせったものの、ピアニカ演奏やつたないオリジナルの弾き語りでその場を凌いだ。それが「稲生座」との付き合いの始まりである。
それからまもなくやはり「稲生座」で演奏したとき、かなり風変わりな50歳くらいのヒッピーのような男に出会った。彼は一方的にかつ熱心に是非一緒に活動しないかと誘ってきた。最初はやたらと愛想がよくてホモではないかとさえ思える口調で寄ってきたが、よくよくつきあってみると憎めない人であった。このラテンパーカッショニストは、その精神の弱さを宗教的な信念でカバーし、バランスをとって生きているように見えたが、2人の子供ときれいな妻と、年老いたピアニストの母を持つ家庭人であった。素頓狂でわがままだが、温もりのある人だと思った。屋外のイベント、横浜のライブハウスや赤坂のバーで一緒に演奏した。 |
人生の伴侶
そんななかで、倉敷から上京しやはり自分を模索していたある女性に出会い、付き合うようになりやがて結婚した。価値観は似ていたものの、これまで自分の周りにいた人達とはまったく違うタイプの人だった。詩になる前の散文表現などを交換しあったりして、それまで真面目に考えていなかった歌詞についても少しは気を配るようになった。彼女はまた、シンセサイザーや録音機に頼る傾向に批判的で、生の音楽そのものの本来の楽しさや気持ちよさにもっと忠実になれば、と諭してくれた。今でも音楽が「音が苦」になってないかチェックしてくれる存在だ。聴衆の一人として、曲やボーカル、アレンジに至るまで、手厳しいが妙に納得させられる意見を言ってくれ、メンバーとはまた少し違った感覚で支えてくれる良き理解者である。 |
新バンド
「新」といってもメンツとのつきあいは古い。ドラマーの佐久間晃彦とは10年になるし、ベーシストの西村和信とも7年くらいになろうか。
今思えば上京していろいろな人と出会い、セッションで音楽交流した。東京に来てまもなく知り合ったギタリストと始めた「咲く咲く」というバンドに始まり、アパート兼スタジオをシェアしたベーシストと組んだバンド「浪漫風」、張りのあるボーカルを迎えた「Lyric
Notes」、女性パーカッションニストと現在のベーシストとのトリオ「けるべろす」を経て、現在のバンドがある。それぞれ面白かった。
現在のメンバーは音楽の趣味/志向はもちろん、気の合う仲間である。とうとうというべきか、遅まきながらCD化を計画、2001年10月には完成予定。このCDは自分たちの今までやってきたことの記録としての意味と、これから目指す世界を表現し始める出発点としての意味が同居するアルバムである。初めはあまり深く考えずに演奏し録音を重ねていたが、その制作過程で曲のイメージとともに楽器そのものの出す音に敏感になり、大げさだが演奏の原点に立ち返るような感覚すら自覚した。そんなわけで少なからずアコースティックな作りを目指した。今まで幾つかのオーディションに応募してきたが実らず、結果自主制作の道を選ばなくてはならなくなったが、だからこそできたわがままな音作りは、気分的には良かった。
2001年後半からはこのCDを手土産にいろいろなところに出かけて行ってCDとはまた一味違うライブの世界を展開したい。 |
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「Lyric Notes」時代の
メンバー |
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